馬車道商店街協同組合

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関東大震災後の横浜(神奈川県立歴史博物館)  1923年(大正12年)9月1日、マグニチュード7.9、震度7の関東大震災が発生しました。この地震による被害は東京・神奈川を中心に死者・行方不明者10万5,000人超を数え、横浜では死者・行方不明者2万6,000人超、また家屋の倒壊・焼失は3万5,000棟超に及びました。

 関内地区も壊滅的な被害を受け、馬車道では横浜正金銀行本店(現・神奈川県立歴史博物館)や川崎銀行横浜支店(現・損保ジャパン横浜馬車道ビル)といったごく一部の建物を除いて焼け野原となってしまいました。横浜正金銀行本店は地震の揺れには持ちこたえたものの、その後の火災で1階から3階までの内装と屋上のドームを焼失しました。

 こうした壊滅的な被害を受けた横浜では復興事業が進められ、この時期に新たに作られた都市の骨格が、現在のまち並みに通じています。
 震災翌月の1923年(大正12年)10月2日には市電神奈川~馬車道間が復旧し、1928年(昭和3年)9月5日には市電本牧線(馬車道~市役所前間)が開通しました。
 1929年(昭和4年)4月23日には昭和天皇が横浜市に行幸し、翌日には野毛山公園で復興を祝う記念式典が開催されました。

 震災後の関内地区には、鉄筋コンクリート造または鉄骨鉄筋コンクリート造の建物が数多く建てられました。横浜指路教会、旧生糸検査所(現・横浜第2合同庁舎)、旧第一銀行横浜支店、旧安田銀行横浜支店(現・東京藝術大学大学院)などがあります。

 関東大震災は、横浜にとっても大きな変化の過渡期でした。開港以来、日本を代表する貿易港であった横浜は、震災からの復興を経て、昭和の初め以降は重化学工業都市として発展を遂げていきました。臨海部の埋立事業が展開して工業地帯が作られ、また周辺町村との合併も進められました。

 1931年(昭和6年)の満州事変以降、日本は戦争への道を歩み始めました。馬車道は再び苦難の時代を迎える一方で、商店街は活気を取り戻すようにもなりました。再び商店が揃うとともに、1935年(昭和10年)には横浜宝塚劇場が開場し、馬車道は大いに賑わいました。

 その後、1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まり、翌年の1942年(昭和17年)から横浜は空襲を受けるようになりました。特に1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲による被害は甚大で、馬車道は再び焼け野原となってしまいました。

 終戦後、横浜の中心市街地は日本占領の拠点となりました。土地と建物が大規模に接収され、占領軍の施設が置かれました。馬車道の周辺では、尾上町から弁天通りの各5~6丁目がセカンド・メジャー・ポート兵舎地区となった一方、接収されなかったエリアもありました。

 1952年(昭和27年)1月、馬車道周辺の接収が解除され始め、商店が戻ってきました。1954年(昭和29年)12月22日には馬車道通商店街協同組合が設立され、馬車道は新たな一歩を踏み出したのです。

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